誰とでもすぐに仲良くなれる子どもに
私は佐賀県出身で、父は九州電力でダムの設計をしていました。父の仕事の都合で、山間部を転々としました。そのせいで、どこに行っても3日もあれば友達をつくれる性格になりました。中学・高校時代はずっとサッカーに夢中でしたが、大学でもサッカーを続けたいとは思いませんでした。早く東京に出て、ジャーナリストになりたいという夢がありました。映画業界に足を踏み入れたのは偶然でした。予備校時代、一緒に住んでいた友達が映画の大道具の仕事をやっていて、彼が病気で倒れた時に僕が代打で行ったのが最初のきっかけでした。
映画の世界に触れたことが大きな転機に
私はいわゆる映画青年ではありませんでしたが、初めて映画の現場を目の当たりにして、人と人とが熱くぶつかりあうその独特な雰囲気にすぐに魅了されました。そこで助監督の仕事を1年間経験することになります。とにかくよく働きました。誰よりも早く現場に来て、誰よりも遅くまで現場にいました。おかげでいろんな映画人と人脈ができましたし、映像で自分の考えを表現したいという気持ちがさらに高まりました。ドキュメンタリーの映像作品を企画・撮影する、フリーランスの映像ディレクターになりたいと真剣に考えていました。
ドキュメンタリーの企画をとことん考え抜く
その後は、昼間は日雇いの肉体労働をしながら、夜はドキュメンタリーの企画書を書くという大変な日々が続きます。1つの企画書を書くのに10冊の本を読むので、部屋の四隅には本の山ができていました。もう才能がないから辞めるかと思っていた矢先、最初はいくら書いても通らなかった企画書が、急に通るようになったのには驚きました。それが23〜24歳の頃です。それ以外にも、レイトンハウスがF1に参戦したときにコンサルティングをしたりもしていました。最終的にはフリーランスで年収4000万円を稼ぐまでになりました。
様々な業界で頑張るプロの役に立ちたい
クリーク・アンド・リバー社を立ち上げたのは、日米合作の映像作品をつくっていた際に、アメリカのクリエイターたちと接したことがきっかけです。NYでの編集作業中、「この仕事が終わったら僕はフロリダでしばらく休暇を取るよ。君は?」と訊かれたんですね。この時に日米クリエイターの立場の違いをはっきりと知ったんです。現在はクリエイター支援の他、グループ内でドクター、エンジニア、弁護士の生涯価値向上を目指して頑張っています。誰もが自分の夢に向かって自己実現できる、そんな社会をつくっていきたいです。