「ぬるま湯」の中にいた自分へ抱いた違和感
子どものころの印象に残っていることと言えば、明治生まれの祖母に教えてもらった3つの教えです。「うそとごまかしは絶対にするな。」「人様に迷惑をかけるな。」「戦ったら、必ず勝て。」この教えはずっと心の中にありますね。良い教訓を授かったと思っています。大学卒業後に入社した鉄鋼商社は、会社の業務内容も環境も待遇も申し分のないものでした。しかし、30歳で独立を目指していた私が「このままぬるま湯の中にいていいのか」と疑問を抱き始めていたのもまた事実でした。入社2年目の春「モーレツ会社大和ハウス工業」と書かれた週刊誌の記事を目にした瞬間が私にとってのターニングポイントとなります。若いうちの苦労は買ってでもするべきだと考えていた私にとって、当時『不夜城』と呼ばれていた大和ハウス工業は自分を鍛える最適の環境として映ったのです。そうして私は大和ハウス工業の門をたたきました。
突然命ぜられた子会社社長への就任
実際に入社してからも「30歳で独立する」という目標は変わりませんでした。しかし、25歳で入社し、多忙すぎる日々を送るうちに30歳で独立をする余裕はなくなっていったのです。あっと言う間に日々は過ぎて、営業部に移り支店長となった時に創業者である社長とやりとりをする機会に恵まれたのでした。工場勤務のかたわら睡眠時間を削って会社の事業全般を勉強し、「モーレツ支店長」として山口、福岡で実績をあげていた46歳の時に、大和ハウス工業の役員に就任しました。大和ハウス工業の専務当時、創業者から赤字に陥った関連会社「大和団地」の再建を命じられ、社長として率先垂範で社員を引っ張りました。この時には本当に苦労し眠れない夜が続いたこともありましたが、結果黒字に戻し、復配まで導けた時には「良い社会人人生を送らせてもらった」と胸が震えたことを覚えています。
今もなお変わらぬ創業者への敬意
創業者よりその実績を評価され、2001年大和団地と大和ハウスの合併を機に社長に就任することとなりました。8年間大和団地の再建に出ていたことで大和ハウス工業を外から客観的に見る機会を得た私は大和ハウス工業がかつての野武士集団ではなくなってしまったと感じました。まずは役員の意識改革、また大胆な組織改編にも着手をしていきました。結果私が行った「熱湯経営」が功を奏し、会社はV字回復を遂げることができましたが、秘訣は別なところにあると私は思っています。創業者が作ってくれた基盤の上で企業が伸びていかないわけがありません。創業者の石橋信夫を知れば知るほどに偉大さを感じます。創業者が成し遂げたことと私の苦労とでは比べ物にならないと思っていますし、恩は忘れてはいけないものなのです。
大和ハウス工業、今後の展望
最終的には45年先に10兆円企業へ成長させるのが目標です。私が退いた後でも、その目標を達成させてくれる後継者が必ずいると思っています。その人材を見つけ、育成することが現在目指していることです。今の若い人にはぜひ明確な高い志を持ってほしいですね。若さは大きな財産であり、誠意と熱意を持って失敗を恐れずにチャレンジすることが成功への近道となります。